経営理念
大館感恩講は、1833年をピークとする天保の飢饉の被害者救済とその後の凶作、疫病の蔓延を案じた有志11人が創設した。扶助精神を具体化するために設立当初に行った事は、土地(田畑)を購入して耕作にいそしみ、収穫したモミを「備荒貯米」する事であった。ある時は存亡の危機という局面に立ったものの、受け継がれた精神は現法人の事業にも色濃く反映し先駆的な事業展開に力を注いできた。「困っている人を見過ごさない」姿勢と必要とされているニーズを「発見」する先見性を経営理念とし、現在事業の展開を図っている。
歴史
大館感恩講設立の中心となった11人は今後の凶作対策のためには土地と貯米が必要と考え、自らの報酬や登記手数料からの寄付を基に資金を運用し1846年(弘化3年)に田畑を購入する。土地の所有権については名義人を「田畑郷助」という架空の人物名にし、資産を講の原資として受け継ぐ仕組みを作った。「田畑をもって郷人を助ける」という意味を持つこの名は、一種の法人名として感恩講の名と共に人々に認知される事となった。田畑郷助は倉を建築して籾を保管し、所有資産を拡大、保守・管理しながら施米を中心に窮民救済にあたった。
明治に入ると大きな時代の転換と共に感恩講も変化を余儀なくされた。戊辰戦争での貯米全放出、戦禍により消耗した田畑の復興などの試練を越えて守られてきた感恩講だったが、1876年(明治9年)地租改正のため「田畑郷助」名義での所有が不可能となる。しかし、設立当初の発起人の1人が1884年(明治17年)「田畑郷助設立原因書」を著し、存在意義を町の内外にアピールした。そこで再確認された窮民救済の初志とその財源として資産を「将来永遠に保存すべし」との決意は感恩講存続への大きな原動力となる。
田畑郷助は1898年(明治31年)の民法施行を受けて「財団法人大館田郷感恩講」に改組し活動を続けていたが、第二次大戦下の混乱と、戦後の農地改革による全農地売却という最大の危機に直面する。しかし、存続をあきらめない人々の努力により残された宅地の整理、運用・管理を続け、福祉事業経営と言う形での再生の方策を探った。そして1966年(昭和41年)「社会福祉法人大館感恩講」の設立が認可された。その志に協力を約束した大館市から母子寮と公益質屋の経営を移管される事となった。公益質屋は時代的な使命を終え、法改正と共に1998年(平成10年)に廃止されたが、母子生活支援施設に加え1970年(昭和45年)から始まった乳児保育所にも注力した。公益質屋廃止後、新たに地域に貢献できる事業として有料職業紹介所「大館看護師・家政婦紹介所」を平成11年4月から設置経営してきた。しかし、ニーズの低迷により経営が困難となり、平成26年3月末をもって事業を廃止するに至った。平成26年4月からは大館市立の4保育園(釈迦内、十二所、東館、西館)の指定管理を受け運営を行っている。